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食べるということ

ここ最近

ヨガナースとして(ヨガ、看護師)

またハーブブレンドティー・コンシェルジュとしても

カラダと合わせて食への話が各方面から入ってくる。

ヴェーガン、ベジタリアン、マクロビオティクス、またはそうでない人。

色々な捉え方があっていいと思う。

わたしは「基本ベジタリアン」な気がする。

・・・

って。変な表現ですね。

自分自身で食事をコントロールできる時は自然と野菜ばかりを口にする。

それは

動物愛護心や、

ヨガでいうアヒンサー(非暴力)、

仏教では不殺生という概念から…というより、

単純にカラダがそう欲するから。

食べることが好きなわたしは

国内外を旅していての楽しみは

食べることであり

「食文化に触れること」

食事に歴史や文化があり、

また作り手の「こころ」がこもる。

だから

好き。

そこから相手や、国を知るきっかけになる。

その時は肉も、お魚も、なんでもいただく。

それは今も昔も変わらないが、ヨガと関わるようになってから、

「食」との向き合い方が変わってきた。

見た目的なところじゃないよ。

「こころ」で。

なぜなら、

食事には文化・伝統と歴史があり、

何よりもこれに手をかけてくれた作り手のこころがある。

日本でいうなら、「サザエさん」でおなじみの家族で囲む食卓。

「いただきます」や「ごちそうさま」

世界に珍しくない日本の「寿司」

そして日本各地にある、

日本人でもその地の人でなければ知らない「郷土料理」

そして卓越し、洗練された技術と知恵がお皿に凛とした姿で表現される「日本料理」

また茶人・利休のもてなし、茶人のこころから一服にいたるまでの「懐石」

出汁の文化

・・・

日本だけでもこんなにある。いや、まだまだあるだろう。

また (あくまで想像する例えです)

もしかしたら(わたしはまだ訪れたことはないが)ある村では

来客に対して「よくお越しくださいました」との

気持ちをこめたもてなしが

自分の家畜をしめて料理にし振舞うこと・・・かもしれない。

(もしかしたら、それを回避するだけの要素は事前にあるかもしれないですよ。)

そのときに

ヨガの立場としてアヒンサーの姿勢がわたしはとれるだろうか・・・と

自分の意図せず目の前に並んだ「いのち」。

食べれませんと、お断りすることができるのだろうか・・・。

日本では残した食べ物は簡単に廃棄されてしまうだろうが、

それはわたしの意図するアヒンサーではないような気がした。

それなら、

目の前の恵みといのちに感謝し

向き合いながら

いただくこと。

ありがとう。って。

それがわたしにとって「わたしらしい」食の向き方。

ヨガを伝える側に立つものとして、

また医療の現場に立つものとして、

思うこと。

食を見直し、考えることは

自分と向き合うこと。

それは

自分の未来を築くこと。

わたしはそう思う。

自分と向き合うことを知らずに、

または自分の「こころ」と「からだ」の声を聞かずに生きた積み重ねが

もしかしたらその結果が

医療の現場でお会いすることになるのかもしれないですね。

その時は医療の現場で、

または、そうなる前のご自身の気付きでとなれば

ヨガの場でお話しを伺うことになっているんだろうな…。

そして個人的には

命から命へエネルギーのリレーをする事 明日を作ること そして 未来に還元する事。

それが食べる事 そして生きる事。


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